アラズヤ商店

日々のナマキズ

パンのみに生くるものにあらず納豆こそをいただくものなんである。

咳をすると、猫が決まって「うにょお」と言ってあたしのことを振り返ります。

 

キャットタワーのてっぺんから外界の景色に見入るだけの無口なイキモノが、例えばただ今現在の世の中に蔓延する正体不明の正式名称を持つ何かの一種とされるものについて人々がてんやわんやであって、共に暮らすあたしが手洗いうがいを習慣的に行うことくらい当然であるとばかりに見過ごしながらも、どういったさなかをかいくぐり通り過ぎて我が家に辿り着いたものなのか、あたし自身はたいした用心もなく慎重であるべき心掛けも普段通りにあって過剰であることはないのだけれど、ゴホンと一発、猫は何かを思って「うにょお」と振り返りつつささやくわけです。

 

「大丈夫であるよ。心配してくれんのか、優しいの」

 

と一言いえば、猫は気が済んだようにストーブの前でぺたりと寝込んで何ごともなかったように、まさに何ごともないことをあたしにその素振りで伝えてくれるもので、所詮どちらが自然に近いのかと言えば、そんなことはわかり切ったことであるよな、としょんないことを考えながら、お米が炊けるのを待っています。

 

パンを食べなくなった。

週末すらも。

 

米が、納豆が食べたいのだ。

 

好きも嫌いも、美味いも不味いもない。

米と納豆と味噌汁。

可も不可もなく、たぶん悪いことこそなさそうな、しいてなら味噌質の塩分気にしていこうぜ、くらいの用心のみで極めて殺める気配の少ない食卓を実現するハイパー質素な日本人習慣最強説に付き従う週末の朝も目の前に広がる空は雲一つなくすみわたるものなんであります。

体も何だか透き通る気がするぜ。

 

気がするだけなんだぜ。

 

 

ここのところ、これまでの敵を取るように寝まくっているせいか、今朝なんか手の甲の色とハリがやけに健康的で自分でビビるキモいおっさんが一匹。

老いてこそ体は生活リズムに敏感にその影響を告白しやがるものなんだぜ、といやが上にも実感してしまうお節介クオリティ。

 

何しろここ数カ月というもの、鳥のような暮らしをしておりましたもの。

三時間スパンで寝ると起きるを繰り返しつつタスクをこなしたりこなさなかったりこなせなかったりする暮らしに付き合わされた猫はストレスで便秘になりましたとさ。

 

実に申し訳ない。

 

 

そういえば、金魚も水面をバシャバシャ叩かなくなったな。

あんなものすらストレスを感じていたのだろうか、まぶたもないくせに。

 

生意気な水中生物め。

 

 

あたしこそ、ストレスがないかと言えばそんなはずはないのだけれど、いったいなにがストレスなのかと訊かれたら、即答できるほどストレスフルである自覚はないので恐らくあたしのストレスは適性範囲内でぼそぼそ恨みを吐く程度のものに過ぎないことは何となくわかっているのである。

 

「やっぱり影響ある? 世の中こんな感じで」

 

なんてよく訊かれるのだけれど、もちろんないわけないだろうと思っているのはあたしのただの思い込みで、履歴を眺めてみると所詮ヒマな店がヒマなだけの代り映えのない有り様で、正直に言ってしまえば何にも変わらない、むしろ感謝せねばなと思うくらいには案外お出掛けいただけているものと受け止めるわけで、この先結果として備わる事態もすでにある今現在の出来映えでしかないと思うなら、目の前のことを楽しく正しく思うなりにお節介なことも交えながら普通に有難くこなすしかないよなあ、とつくづく思うわけで、世間やシステムの何等かを見たり聞いたり触れたり眺めたりしてみれば、まったく影響なしとは思えない実感もそこここにないわけでもないのだけれど、そんなことすらそれぞれが選んで成り立ってきたつもりのものが、今現在という状況になって尚且つフィットするもの、成り立つものとして正しく選択されてきたものだったのか、気のしてきたものだったのか、需要に対して適正なものを、正直なものを、適ったものを価値として意味として役割として臨むものなら良心としてすら、理に適ったものだったのかを自動的に白状させられているのが現在の有り様ということに過ぎないと感じるものならやはり、あたしは”何にも変わらない”と白状するべきなのだと思うのだし、仕組みとして供給されるのかもしれない各種の援助や助成など受け付ける資格があるものなのかと思うとそれはもちろん助けてほしい気持ちはあるしそれは人間だもの、苦しい現状に自ら身を投じたがるはずもなく得られるものが得たいものなのだけれど、何だかそれではいけないような気がしてしまう自分は一体何様のつもりなのか屁のつっぱりにもならないことを見栄のように思いついてみたところで回らないものは回らないのだし心細くなれば願うものは願いたくなってしまうものに決まっているのだし、だからと言って周辺情報を辿ってみれば、従来と現状の比較を明らかにしてその窮状を証明しろなどと言った分別は要求されるわけで、正直に言えばあたしの窮状を窮状としたがるならそれは単にあたしが望んで排除して選択して掻い摘んだ結果の窮状でしかなく、それをとりまく情勢が勝手におかしなことになっているだけのことで、右を向いても左を向いても良くも悪くもそんなことはやはり自分のせいではないよなあ、と思うと、理に適ったものなのか、適ったものだったのか、とあたしはあたし自身にこそ問うべきのはずなのだし受け入れてこそナンボのものの様な気がしてしまうわけで、そんなことに芯を喰らいたいばかりにここ数カ月というもの、当てもなくただ執念ばかりで鳥のような暮らしを、猫や金魚にすらストレスを共有させながら暮らしたもののはずなのだし、そうして一つの納得を得たはずで、そうして今日も土曜日の朝を何食わぬ調子で米の炊きあがりを、味噌汁の出来映えを、ただ混ぜるだけの納豆を至福の充実のごとく受け入れたがるはずで、何も変わらなかったりするのです。

 

洗面の蛇口から直で水が飲みたい、と猫がうるさいので終わりといたします。