アラズヤ商店

日々のナマキズ

失くして恐ろしいものにすら区別がつけられないつもりなどない

”閉じこもっていろ”と言われればいくらでも閉じこもっていられる性分としては、自粛要請も外出禁止令どうということはないのですが、平気でいられる精神が景気でいられない人たちの精神に脅かされて健全に保たれないのだとしたら、それは全然どうということはなくないということで、つまり了解の上での不愉快ということ。

 

 

納豆が、爆売れしている。

何故ですか。

 

どこにも出かけたくない精神をひっぱたいてようやく出向いてみたスーパーで遭遇する景色にいちいち頬を引きつらせるような気分を思いつかされることはこの上ない不愉快というもので、あたしは単純に”どうした世間、急にスピリチュアルに目覚めてQさんにでも感化されたか”ともちろんイラついたんですけど、実際どういう事情によるものなんですか。

 

急に納豆食ったら、何か役に立つんですか。

納豆菌にコ○ナに対する特効でも認められたんですか。

テレビ観ないから全然わかりません。

わかりたくもありません。

 

余分に買い込んだって、賞味期限あるのに。

わざわざ腐ったもん平気で食らうエコなんてただの欺瞞だぞおまえら。

なんて、ただの集団心理が大嫌いなだけです口汚くてすみません。

 

カートやかごの中満杯にして楽しそうに買い物してる人たちばかりしか見てないから、緊張感伝わってきません。

伝わってきても真に受けるつもりもないんですけど。

信じる気がないならどうして買い漁るのか。

政府がまき散らすダブルスタンダードに腹を立てながら、自分たちのやってることにも説明がつかないなら批判する資格なんてないんじゃないですかね。

給料で守られていて安心なら余計なこともすんな、とは思いますね性格悪いので。

 

不確かな情報にのらりくらりと便乗する不確かな感情や思考の如何に見苦しいことか。

その象徴があっちにもこっちにも溢れかえるマスク面ということならますますそんもんしたくねえなあとこちとらいよいよ意固地を思いつかずにはいられないわけで、その前に考えることわきまえることくらいいくらでもあるはずだろこのくそ馬鹿どもが、と完全にねじくれてしまっているのはあたしばっかですか、そいつは実に申し訳ない。

 

 

マスクなんて見掛けても恥ずかしくて買えない、と完全にブチ切れてしまったあたしはたまたま見かけてしまった”手作りマスク”の動画に感化されてしまいまして、単なるマスクという形態のみならず通気性とフィルター効果といったことも素人なりに加味した上での材料を準備いたしまして、本日は録り溜めしたきり見そびれていたよくわからないバラエティーでもラジオ代わりに耳に留めつつマスク作りに励んでみようかと思っています。

 

あまり可愛い柄のキッチンペーパーがなかったんですけど、ダサめのレモン柄のやつが案外いい感じになりそうだな通気性もまあまあだし、なんて楽しみにしてます。

ゴム紐すら売り切れていてイラつきましたが、ストッキング掻っ捌いてゴム代わりにするのがスタンダードなのだそうで、普段あまり手にしないものを掻っ捌くなんて何だか貴重な体験ではないですかオブスィーンな衝動ではありますまいかなどと下劣なことを思いつつ工作に挑んでみることといたします。

 

 

”働きたくない”と惜しみなく願っていたら、本当に働かなくてよくなってしまった現実の文盲ぶりに驚愕してます。

いや、実現速度ハンパねぇなって恐れ慄いてます。

 

したらばさらには、”働かなくても贅沢に暮らせる未来”を惜しみなく願うべきではないのかと、完全に主体性ゼロの願望を願望たらしめない五次元の怠慢をまったく疑いなく享受する精神性こそを自らに説いて、これまでの人生の経過を鑑みつつ今現在世間に起きつつある事実とそうしてもたらされるべき精神の変化変容をいち早く察してその怠慢と横柄と鈍感と自惚れに常からイラ立ち続けてきた自分自身の真価こそを疑わず諦めず妄信せず執着せずしかしながら怖気ずくことなくこれまで通りにはいかないということを着実に受け入れてその回答を予感通りに体験したいと個人的には思っているわけで、今現在この世にポピュリズムよろしく蔓延する理性や欺瞞や不満や言質が如何に鈍く嵌り期待の如く弄ばれる程度の知性やら理性やら本性やら習性であることか、そんなものものが投げ捨てて振り回されてきた馬鹿馬鹿しさにこそ気付くべきだと個人的にはずっと思い続けてきたわけで、少しも同意できずに生き続けてきたわけで、そうしてどう転んでも繰り返される不平不満や不安や怨念のようなことごとにいちいち付き合わされることは本当に個人レベルの地獄ともいうべき馬鹿馬鹿しさで、そんな程度のことごとからなどごく個人的意志意思において軽々と離脱してやるとずっとその覚悟をしたためてきた自覚はかなりあるわけなんですヤバいですか。

 

”自粛と補償をセットで”という主張は至極もっともなことだとあたしももちろん思うのだけれど、そんなことをいちいち主張しなけければならないくそみたいな世の在中でそうしてまで救われたい理由が思い付けますか、とあたしは勝手にひねくれてみたい。

 

そのくらい、今のこんな世の中には、こんな仕組みにはとことん愛想が尽きているわけで全ては嘘だぞと、これまでの取り組みは今この時のためこその取り組みなんかでは少しもなかったぞと自分自身にこそ完全に失望しているわけでつまり、相応しくなかったと、完全にこれまでのこと如くが自分には全然相応しくなかったと自覚するもので、これはもうリセットだと、そんな時代ではとっくになくなってしまっているぞとほとんど確信に近いおもいがしているわけで、すべて失くしてしまいたいなあごく個人として分離して余計な影響から解かれて、大切なモノこそ健やかにあってその一つ一つにあたしごときなど何一つ関係も影響もないそれぞれであることが明確で、加担も依存もない、損得も執着もない、因果も需給も、悲しみや苦しみを戒めの如く付きつけられるような支配も咎なく生きたがることへの偏見も何もなく、シンプルに軽やかに思いつくばかりの方向と困難と解放と成就、果ては笑いながら死ぬのが一番ということなのだけれど、確かにそうでしょう、この世に置き残したいものなどないし持ち去りたいものこそないのだから、色々荷物が多すぎる。重い。

 

だから弱いのではないのか。

豊かさは、弱点というその人の穴でしかないのではないのか。

失うことが苦しみの理由になるなら、一体これまで何を欲しがってきたものなのか。

あたしは結局そんなことをずっと疑い続けてきたわけで、そんなことごとの一つ一つが今、もろにキてる気がするわけです。

 

要らないものが多すぎて、ずっと苦しかった。

情けないですけど、それは偽りようのない本音です。

それを自分にも、他人にも見ることが嫌で仕方がなかった。

 

”働きたくない”というあたしの主張がただの文脈として通用してしまう気がする人は、かなり古いし、感性としてこの先ヤバいと思う。

生意気なことを言っているだけなんですけど、そうでもなければ何一つ信じ難いことばかりになってしまう世界はもうすぐ目の前に来ているはずなんです。

ごく個人的な見解に過ぎないんですけど。

ごく個人的な見解に過ぎないんですけど、毎日毎日聞こえてくる垂れ流されている世の中の不平不満や不安や怨念のようなことを、冷静に眺めて感じてみて欲しいんですよ。

わかりますか。

 

 

元通りの生活に無事に戻れることを望むだけなら、今目の前で起きていることについて何も感じていないことと少しも変わらない。

 

そんな言い方ではほとんどの人にはわからないだろうし徒に誤解を思いつかせるだけでしかないことはわかるんだけど、わからない人はわからないままなのがこれから世界に違いないのだし、わからせる必要もないことさえ明らかのような気がするわけです。

 

 

反発したり反論を思いつくよりも先に、認めなければならないこれまで散々依存してきた残酷や怠慢のようなことばかりが多すぎて、たぶんこの先の世界はしばらくの間大変なことになりそうな気がしてます。

経済や政治や世界平和とか、そんなことはわからないけれど、単純にこの先の地上に暮らす人類としてのただの性質のような話だと個人的には思っています。

 

まったく同じ世界に暮らしながら、まったく別々に切り離されたまるきりパラレルワールドに暮らすような世界がたぶん、この先には待ち受けている気がする。

目に見えるものは同じでも、性質次第で感じ取れるものはまったく別のものになる。

どうせそれはまったくの個人的にな性質の話で、他人が他人に対してお節介を仕出かしてどうにかなるレベルの話ではなくなってしまうはずだと思うんです。

セミナーとか、そんな安穏としたがる学び方なんてもうお終い。

 

一人一人が、自分自身に正確に付き合えなければ、お望み通り元通り以下の暮らしは返ってくるはずで、また不平不満や不安や怨念が繰り返されるばかり。

本当に欲しいものがわかるつもりなら、たぶんそちらは選ばないはずなのだけれど、世間には未だにマスクがない。

納豆がない。

 

馬鹿馬鹿しくてやってられない。

 

 

それは絶望という淵でわずかに見る希望という話でしかないでしょう、ということです。

その程度のままの世界で救われたいつもりなど、これっぽっちもないということです。